Note to Self

2021.1.16~ 日々の読書の記録。

【読書録】『誰かの理想を生きられはしない とり残された者のためのトランスジェンダー史』

今回取り上げるのは、「自分のために書かれたのではないか」と思うくらい共感し、泣きながら読んだこの本。 読んだのは少し前だから記憶古くなっているけど、備忘録として考えたことをまとめる。

誰かの理想を生きられはしない

誰かの理想を生きられはしない

 

まず、タイトルが好き。自分自身、ポジティブかネガティブかを問われたらおそらく後者だし、基本的にどこか悲しさを感じさせる話が好き。でもその「生きられはしない」という諦めの中にも強さやプライドを感じさせる感じ。そして「とり残された者」へのやさしいまなざし。

そんなamazarashiをも彷彿とさせる本をTwitterで見かけたので、「これは読むしかない!」と一瞬でお買い上げした(普段は図書館で借りることの方が多いけど、好きなものには課金する。”選択と集中”は大事)。

 

LGBTの中でも置いていかれがちなトランスジェンダー、そしてトランスジェンダーの中でもさらに不可視化されがちなノンバイナリーの我ら。報道やドラマといったメディアを通して描かれ続けた「トランスジェンダー性同一性障害」の図式が強すぎて、透明人間にされてきた我ら。まさにそんな、でもしっかりとこの社会に存在し、生きている人間たちのために書かれた話だった。

だが、たとえ「性同一性障害」がトランスジェンダー(あるいは、ひとくくりに混同されて「LGBT」)という言葉に置き換わって認知されても、日本で機能している制度は結局「性同一性障害」、GID基準で出来ているのだ。いずれ何らかの手術を受けるとき、戸籍の性別を変更したいと思うとき、必ず「性同一性障害」と直面する日がやってくるだろう。...この本は、あとから生まれてくる者たちのためにも書かれている。(p32-33)

 

印象的だった文章を書きだすときりがないので、いくつかを抜粋。

GIDは個人の「疾病」ではなく、社会の「疾病」である。特例法はあたかも、個人の疾病を解消することに手を貸すような姿をしているが、そもそもの生きづらさや不自由さを生む原因ごと、当事者の領域に還元してしまおうとしている。究極的に変えねばならないのは、当事者の身体ではなく、社会の方であろう。

そのためには、厳しい選択ではあるが、当事者が「いずれ同化・埋没するための」トランス(性別移行)ではなく、ずっと「移行中」であることを期す必要がある。現行特例法が含む男/女の切り分けや、「一般的な」身体への同化、二元論への埋没を敢えて拒否し、境界線上にいることを示し続けることが重要だろう。

通行人や友人が「男か女か判らない人」だったり、「どちらでもない人」だったりすることが「あり得る」ということを、社会の経験として蓄積させる必要がある。そのためには、当事者が当事者たり続ける必要があるのだ。(p58)

その通りなんだけど、めちゃくちゃ酷だな、という絶望も感じた。埋没せず、「移行中」であり続けることは、社会の「不穏分子」であり続けることでもある。社会全体への「教育」のために、周囲から不審な目を向けられる役を買って出る当事者に、みんながなれるわけでもない。クィアであると開き直って、社会の規範をゆがめていくスタンスをどれだけの人がとれるだろうか。むしろ、不審に思われない範囲で何とか自分のセクシュアリティと性別二元論の規範の折り合いをつけていく人が大半だろう。同時に移行し終えて、埋没し、結果的には社会の性別二元論の規範を容認し、再構築させる形になってしまっているトランスジェンダーを責めることも的外れであると思う。

社会的に脆弱な立場に置かれているマイノリティがその役を引き受けなければいけない現実がつらすぎる。もちろん、ひと昔前に比べたら状況は確実に良くなっていて、自分が今享受しているものはそういった先人たちのおかげであることは間違いないのだけれど。

最近はドラマや映画でもLGBTが取り上げられることが増えてきたことだし、そういう中でノンバイナリーの役とかが自然に出てきてくれればいいなと思う。Sex Educationのシーズン3にノンバイナリーのキャラクターが登場するらしいからそれはめちゃくちゃ楽しみ。日本でも気軽にそういうコンテンツがみられるようになってほしい、と思う反面、何度も裏切られてきているので、ちゃんと脚本家とか確認しないと怖すぎて見れない。。

 

特例法が制定されるまでの過程で、恩恵を受けられる者とそうでない者に分けられていく様子もわかりやすくまとまってた。

制約の中でそれを表現するときは、社会規範においてマジョリティに近いスタイルが優先される。子どもを持つ当事者、手術を必要としない当事者は周縁化された。

結局はマジョリティの理解を得やすい形で、マジョリティを脅かさない範囲で「認めてもらう」立場になってしまうんだよな。それによって、「認められない」範囲にいる人たち、つまり「本当のGID」ではない人たちの立場はより弱くなっていく、と。

 

こういった「品評」は決して許されるものではなく、どのような人物が「女性」であるか、その基準がどこにあるかといった「議論」も成立させるべきではない。万が一にも「議論」を試みる場合は、ひとりひとりの当事者の背後には、己の在り方を掴むために足掻き続けてきた歴史があることに最大限の敬意を払わねばならない。(p112-113)

ここ読んだとき号泣した。terfと呼ばれる人たちを始め、Twitter上でトランス排除発言を見るのはとてもきつい。フェミニズムはそういうヘイトとは相容れないと信じている分、トランスフォビックな発言をしている人たちがフェミニストを名乗っていると、余計に絶望していた。だからこそ、この言葉がうれしかった。

 

あと「おわりに」の言葉はまさに自分が思ってることを代弁してくれていた。

特権を持つ者は、それを持たない者の立場を想像し、マイノリティを排除しない方法をかんがえる責任がある。トランスジェンダーゆえのコストをどれだけ払っているとしても、決して免除されることのない責任だ。自責の念を駆り立てようとして言っているのではない。ものを考えるときの習慣として、他者と接する際の前提として、意識してはどうかという提案である。(p202)

「多様性を理解しましょう」 というのは、「みんなちがってみんないい」という寛容性だけでは成り立たない。社会の構造として、どのような格差があるのか、それを是正するためにはどんなアクションが必要なのかを理解する必要がある。違いを見るだけではなく、特権を持っているのは誰か、抑圧されているのは誰かを考えなければ、いつまでたっても多様な社会は実現されない。