Note to Self

2021.1.16~ 日々の読書の記録。

【読書録】『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』

ジェンダーをテーマに取り上げている小説として、気になっていたので読んだ。

過去に自分が身に着けていた有害な男らしさへの嫌悪感とか、知らぬ間に自分が他人を傷つけているのではないかという恐れとか、自分は良くても他の人が苦しんでいる状況がつらいという繊細さとか。そういう「やさしすぎる」からこそ痛みから逃れられない人たちの生きづらさがとっても丁寧に描写されている本だった。

ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい

ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい

 

 

以下、ネタバレを含みます。

 

誰も傷つかないでほしい、でもどうしていいかわからない

自分の辛さを人に開示することで、その人を辛くさせてしまうのが怖いから、代わりにぬいぐるみに話を聞いてもらう。有害な男らしさに染まっている地元の友人をみて、自分も少し前まではそうだったと自分に対しての嫌悪感を抱くとともに、環境がその人をそうさせてしまっていることも理解できるから、どうしていいかわからない。実家に帰って母親が家事をすべて担当しているのを目の当たりにするけれど、両親はその秩序の中で生きていて、自分が何か言うことでその秩序を壊してしまうのではないか、と考えてしまって何も言えない。痴漢されている人を見かけて、自分がそうされているわけではなくてもつらくなってしまう――。

共感覚が強いゆえの生きづらさ。めちゃくちゃわかる気がした。

 

 そのよろこびのなかで七森は、もっともっと未来に生まれたかったな、と思う。だれも傷つかないでいい、やさしさが社会に埋め込まれたもっともっと未来に。(p72)

 

あいつらの、僕らのことばがどこまでも徹底的に個人的なものだったらよかった。嫌なことをいうやつから耳を塞いで、そいつの口を塞いでそれで終わりなら、まだこわさと向き合えた。でもそうじゃない。どんなことばも社会を纏ってしまっている。どんなことばも、社会から発せられたものだ。そう考えるとどうしようもなくなって、七森はしゃがみ込んでしまう。(p87)

この2つ、今まで何度思ってきたことだろう。誰も傷つかない社会になってほしい。でも今の社会はその理想には程遠くて、途方に暮れてしまう。何でわからないの?と腹を立ててしまう。相手の言動の裏にはこの社会の構造があることがわかればわかるほど、怒りと不安をどこにぶつけていいのかわからず、ただただ悲しくて、むなしくて、立ちすくんでしまう感覚。

 

白城もその場にいて、麦戸ちゃんになにも聞かないぬいサーの空気を、破滅しあうようなやさしさなんじゃないかと感じた。ただ、そこにいるだけを肯定したり、しんどい状況でいることを肯定する空気。それは、でも、そこから抜け出さなくてもいいといっているみたいに見える。やさしさって痛々しい。あぶない。やさしさがこわいと白城は思う。(p90)

やさしすぎると生きづらい、大学の「ぬいサー」(主人公たちが入っているぬいぐるみに話しかけるサークル)が唯一の救い、というだけで終わらせるのではなくて、こういう俯瞰的な視点もあるから良かった。たぶん、こういう視点がなかったら、リアルはそんな小説みたいにうまくいかない、世の中はそうはいっていられない環境の方が多いんだという反発が強く残っただろうなと思う。

 

登場人物たちが優しすぎると思うと同時に、ここまで描写できる著者もとても優しい、と思った。この本は内容として登場人物たちを通じて傷つけてしまうことへの恐れを描いていると同時に、その書き方や描写の仕方にもその恐れが表れているように感じた。

僕も最低で、この最低を抱えて生きていくことに酔えたらどんなに楽だろ。注意、したい。怒れるようになりたい。でもこわいんだ。僕はただ、他のひとたちにも、自分の言葉でひとが傷ついているかもしれないって気づいてほしい。気付いて、そこからはみんな仲良く、健康にいきてくれたらいいのにな。いまの僕みたいに、しんどくなってほしくない。(p62)

人の痛みに対して想像力をあまり働かせない人たちに読んでもらいたいと思ったけれど、そういう人たちにはこの登場人物たちは「傷つきやすすぎる」「そんなに考える必要ないのに」と一蹴されてしまうのだろうか。

 

この本には「ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい」以外にも「ぬいぐるみ~」と似たテーマの短編が3つ入っていて、印象的な言葉が多かった。

「私、最低だよね」そのときのことを思い出しながら、水にいった。水以外にはきっといえなかった。気を遣って私は人前で自虐できなかった。自分を責めて、自分を把握した気になるのは心地よかった。(p108)――たのしいことに水と気づく

ここを読んで、「自分に足りない点は自分でわかっている、だから大丈夫」と免罪符のように自分を責めていた時期があったなぁ、と思い返した。人に責められるのが怖いから、その前に自分で責めて、「自分のことは理解できている、反省もできている」と思い込んで、なんとか大丈夫だと思い込もうとしていた。今振り返れば、何も大丈夫ではなかったけれど。

みんな人間で、なにをいうのが、なにを聞くのかが失礼になるかわからない。「恋愛」とか「男女」とか、主語が大きい話は、大きい分だけ、ひとを疎外したり、傷つけたりしかねなかった。私自身がそういった話題で傷つくというよりも、傷つくひとがいるだろう、ということが私には大事だった。私の心には私に想像することのできるものたちが私以上に幽霊みたいに住んでいて、私をかたちづくっていた。(p117――たのしいことに水と気づく

私が社会から期待されている性別で生きることに耐えられなくなった時、周りの人の発言の一つ一つが怖かった。この人は性別についてどんな考えを持っている人なのだろうか、と発言の端々まで注目し、恐れなければいけなくなった。それと同時に、自分が今まで発してきた不用意な発言でどれだけの人を踏みつけてきたんだろう、と考えると今度は怖くて何も言えなくなった。

今は以前ほど自分の性別にとらわれず、折り合いをつけて生きられるようになってきたし、自分のメンタルの安定が何によって阻害されるか、あるいはその問題とどう距離を取るべきかがわかるようになってきたから、そこまで追い込まれることはなくなった。でもそれは自分が今まで生きてきた中で導き出した、自分のための生存戦略に過ぎない。ある話題に、あるいはある言葉に、自分は傷つかなくなったとしても、誰かが傷つくかもしれない。その痛みを忘れてはいけないと思っている。

 

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基本的に本は図書館で借りることが多い。買っていると際限なく増えていってしまうし、お金もないから。買うのは何度も読み返したい本とか、目に入ると気持ちが上がる本、エンパワーしてくれる本(といいつつ部屋にある本棚はそこそこ大きい)。特に小説はめったに買わない。それでもこの本は買おうと思った。それくらい登場人物たちにいとおしさを感じた。