Note to Self

2021.1.16~ 日々の読書の記録。

【読書録】ヤシャ・モンク『自己責任の時代』後編

  前編で「責任」という言葉がどのように捉えられ、それがどのように変化してきたのかを整理したので、後編では、それを受けた筆者の主張をまとめる。

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筆者の主張:責任を否定するのではなく、肯定的な責任観を発展させよう!!

まず、責任の意味を考え直し、概念を拡張させる。=肯定的な責任感へ発展させる
「どんな状況なら人に行為の責任を負わせられるか」という発想から、
「他者の福利に責任を負いたい」という誰かの願望へ転換させる
      ⇑ 
そのために、個人が責任を負い、責務を遂行し、他者に当人の行為の責任を負わせることも大事だと考える理由を説明する必要がある。(p148-149)

 

肯定的な責任観とは――個人が遂行し、社会が促進すべきものとしての責任

自己への責任

人にとって大事なのは、自身の生計という物質上の前提条件についてつとめを果たすかどうかという狭い事実ではなく、――それと深くかかわるが別個の問題としての――自分自身の生活に対しての真の主体性の感覚を持つことなのである。(p150)

主体性の感覚を求める願望がとり得る3つの形(p150-151)

①我々は一定の範囲で自分の生を実際に制御することを望んでいる

②我々は自己への責任を果たしていると感じることを必要としている

③我々は自己への責任を果たしていると周囲からみなされることを必要としている

+@ 自己の将来に対する責任:自分の運命を制御できるだろうという感覚の大事さ

他者への責任

様々な外向的関心は、個人の求める様々な責任の中でも決定的な位置を占める。(p159)
➡ここに懲罰的前提を作り替えるヒントがある!

我々の社会は一般市民に対して他者への責任を引き受けるための十分な余地を与えていないのかもしれない、という考えは、つねづね政治学からも哲学からも聞かされることである。(...)

これは、リベラルな哲学全般を拒んで個別的な忠誠を普遍的権利よりも優先させようという動きから生じている。(…)要するに、本質的目的の否定がまず犠牲にするのは、まさに自発的選択に先立って存在し、ただ意志するだけでは放棄できない一種の他者への責任である。(p160)

自分の信念を理由に同性愛者の権利を否定する、自分の属する民族や部族の処遇改善を要求するが、自分ら以外の人々には政治共同体の一員であることを認めない、など。

引用の意味はいまいち理解できなかったけど、上の具体例はわかりやすい。

市民が自分の最も深いコミットメントを尊重するだけの余地を十分提供できるリベラルな社会の展望を築くには、他者への責任が多くの人にとってどれだけ大切かを理解しなければならない。(p161)

サンデルが他者への責任の大切さを力説するとき、彼はしばしば共同体の観点に立っている。(…)しかし時折彼はまた、異なる種類の他者思考的責任についても語っている。それは個別の「企てproject」に向けられた責任である。これもまた、我々が他者に負う責任としては同じくらい大切なのではないだろうか。(162)

という主張と合わせると、自分の信念を主張するのと同様、他者の信念や存在を尊重することも「他者への責任」とみなされるべきだ、という理解でいいのだろうか。

 

他者を責任ある存在と考えること

自分自身や他者への責任を負うことだけでなく、他者をその人の行動への責任を負いうる存在とみなすことも大切。(p163-164)

理由❶:
他者と有意義な関係を築くには、相手の事を自分の行動に責任を負える存在だと考える必要があるから。

”社会的弱者”について考える時に、例えば貧困なら、貧困に陥った責任がその人にあったのではなく、その周りの環境(家庭環境、経済階層、社会構造)に要因がある、という考え方をしがちだけど(もちろんその視点自体は非常に大事)、それが行き過ぎるとその人を無力な存在としてとらえすぎてしまう、その人のもつ力を奪ってしまっていることになる、という話とも関係していると思う。この部分は、前編で扱った「主体性の否定」は責任の時代の有害な側面を克服することはできない(p135)、という主張の裏返し、だと思う。

理由❷:
責任主体性の相互承認は、あらゆる平等主義的社会の成立条件だから。

 真に平等主義的な社会のねらいは、単に人びとに同程度の物質的資産を所有させることだけではなく、完全な市民としての対等な地位を互いに認めさせることでもある。この地位が致命的に損なわれるのは、一部の市民には完全な責任主体性が認められ、他方には認められない、という事態が生じた場合のことである。(p164)

 

肯定的な責任観について述べている章にあった次の文章が印象的だった。

私たちは責任を否定的に見る見方になじんできた。他の市民を脅かすための何か、自分が満たしていないのではないかと恐れる何かとして。(...)責任がこのように懲罰的かつ貧弱に扱われると、どれだけ多くのことが見逃されてしまうのかを思い起こさせる手がかりになった(と思う)。たしかに我々の責任の一部は同胞市民に不当な負担を負わせないことにあるのかもしれない。しかしそれ以外にも、我々が責任概念を必要とする理由――そして責任に関する語りの豊かな歴史の再興がより豊かな我々の市民生活に結び付くべき理由――は山のようにある。肯定的な責任観念なしには、人が自分自身の生活の主体であることが当人にとってどれだけ大切なのかは言い表せないし、人がそのような主体性の持ち主として見られるべきであることも言い表せない。それなしには我々は、人々のアイデンティティの一部がかれらの他者に対する責務、自分の家族への責務やみずから引き受けた企てへの責務によってできていることをとらえられない。そして最後に、それをもたない人は、友人関係から市民間の連帯に至るまで、の重要な人間関係を保てない――そして貧しい人に手を差し伸べた場合でさえも、かれらを蔑んだことを非難されねばならないのである。(p171-172)

 

現代の自己責任論の特徴

我々の自己責任の語り方に顕著な特徴の一つは、個人の行動には関心を向けても、一連の結果の総体を生み出した広範な構造的変化には無関心、というものである。(...)要するに、人はある個人が責任を果たしたかと問うことはあっても、正しい政策がかれららを力付けてましな行動をとるようにできなかったのかと尋ねる事は無いのである。(p175)

➡望ましい社会は、なるべく多くの人に正しい選択能力を与え、なるべく多くの人に充実した物質的に快適な生活を送れるだけの社会的地位を広く提供すべく心を砕くはず。

しかし、「無責任」に行動した人への「処罰」を重視するあまり、われわれは自ら自分の健康を危険にさらし、自分の物質的利益を抑制することで、彼らに自身の行動への結果責任を負わせている。また、制度自体が責任随伴的であるために、人々に精神的不安を負わせている。(p188-189)
広範的な構造的変化に注意を払ってこなかったことで、平時には前衛化していなかった(でも問題はずっと前からあった)ものが各所で表面化してきているなと思う。
肯定的な責任像を公共政策に落とし込む

懲罰的で前制度的な責任像から、肯定的で制度的な責任像に変えると3つの変化が起こるという。(p202)

❶責任を負うことの意義を強調することが、市民の主体性を強化するプラグマティックな方法でありえる

❷人が望む責任を果たせるようになるための物質的、教育上の前提条件を整える

福祉国家の官僚たちを懲罰的裁定者から協働的企てに関与する建設的パートナーに変貌させる

 

最後少し力尽きてしまった感。ヘビーだったけど少しは理解できたかな。読みなおしたらまた感想も含めて書くかも。