Note to Self

2021.1.16~ 日々の読書の記録。

【読書録】ヤシャ・モンク『自己責任の時代』前編

自己責任論が幅を利かせている今の日本社会の雰囲気にどうしても共感できないので、何かの突破口を見つけられないかと思って読んだ。友人におすすめされた本。

 ただ、読んだはいいものの、政治哲学の背景知識が無いに等しいので理解が追い付いてない。とりあえず思考整理のために分かった範囲だけでもまとめてみる。

 

🔑キーワード

 まず「自己責任」という言葉を考える前に、政治において「責任」という言葉がどう変化してきたかをこの本に沿って整理してみる。

戦後直後には、一個の広範な社会的合意があった。それによると、国家は市民に一定の義務を負っており、その多くは当の市民が下した責任とほぼ無関係である。路頭に迷う人がいれば、国家はかれらを助けなければならない(...)しかし他方で、「無責任に」ふるまった人々にまでこの種の義務を広げることについて、否定的な立場をとる有権者や政治家の数は増えつつある。年長者世代は、責任とは人助けの義務のことだと考えてきた。一方、今日広く浸透している責任像は、極めて懲罰的punitiveなのである。(p5)

各個人の責任へと意味合いが変化していったのは80年代初頭の保守革命のころから。

自己責任の新解釈は、たとえば、ロナルド・レーガンの最も有名な演説の一説に潜む主題だった。「私たちは、法が破られたとき、罪を問われるべきは法を破った者ではなく社会なのだ、という考え方を捨てなければなりません。いまこそ、誰もが彼の行動の結果に責任を負う、という米国流の原則を蘇らせるときなのです」。(p2)

中道右派だけでなく、中道左派の指導者でさえ、もはや万人対象のセーフティネットについては語らなくなっている。(自己責任を受け入れている多数の有権者に受け入れられないという理由も大きい)

バラク・オバマ大統領合衆国大統領もそうだが、その代わりにかれらは、責任ある行動をとってきた人びとを不運から守らねばならない、と言う。(...) 正当に扱われるべきは「真面目に働き規則に従う」米国人だと力説してきたのである。(p3)

 他者に対して負う「義務としての責任」から、
    ⇓
自分の”選択”により引き起こされた事態に対して負う「結果責任」としての責任へ、意味が転換していったことがわかる。

 

💡本書のポイント

本書ではこの変容を政治哲学的な側面からも分析する。(ほかにも社会科学、犯罪学などいろんな方面から分析しているけど割愛)

功利主義(半世紀前まで分析哲学において最有力だった理論的枠組み)

米国・英国のが多くの政治哲学者は功利主義者(帰結主義的)で、「結果責任」より、「義務としての責任」と結びついていた。功利主義はこの❶、❷に強く異議を唱える。

通常の道徳的思考に基づく、他者に対する責任の特徴

❶作為と不作為を区別する

人は自分の行為で他者を害さない強い義務を負うが、他者に手を差し伸べる義務はそれよりずっと弱い。結果的に他者に苦痛を与える行為は、同じ結果を招く不作為よりもはるかに悪いこととされる。(p40)

同じ人を殺すという帰結をもたらす行為でも、故意の殺人と過失程度の低い交通事故(青信号で横断歩道もないのに自転車が脇から飛び出してきたなど)で刑の重さが変わる、とか。

❷「特別な関係」を幅広く許容する

我々は、家族や友人、同胞市民に対する自分の義務は、遠方の、あるいは見知らぬ者への義務にまさると考える。(p40)

 つまり、作為と不作為の区別をつけず、家族も見知らぬ他者も同様に万人の利害が等しく重要であると主張する。
     ⇓
道徳的義務を拡張する。

だが、結果責任としての責任はめちゃくちゃ狭められている。

帰結主義者は、他者のために多くをなすことを求めるが、我々が実際にその責任を果たそうと果たすまいと、かれらの我々に対する扱いには何ら明白な影響を与えないのである。(p41)

結果責任としての責任像への転換(義務論的・契約論的

60、70年代、政治哲学者の間では、帰結主義は流行らなくなり、『正義論』(1971)でのジョン・ロールズ功利主義批判に依拠しつつ、義務論的・契約論的な議論に変容、責任の意味合いも次のように変化していった。

 ❶他者に対する我々の責任の範囲を制限した

――「社会的協働の公正な枠組み」に参加したいという願望があるか、あるいはその強さによって、その人に対して負うべき義務の度合いが変わる。(p41)
――「枠組み」に参加している人への要求の度合いも弱まる。(p42)

帰結論者👤「1ドルの寄付で苦痛より幸福の総残高を増やせるなら、そうすることが道徳的責任!」
契約論者👤「正しい規則を尊重し、それを促進していれば、そこまでしなくてよい」

 

❷個人に対する我々の道徳的態度が一層その振る舞い方に影響されやすくなった

ある人が公的支援を要求できるかは、その人の過去の振る舞い次第。(p44)
個々の市民に集団が配慮するには、かれらに共同体に対する自分の責任を果たそうとする意欲がなければならない。(p45-46)

 

❸強権的な刑罰論:行為者の道徳的地位に新たな重要性が加えられた

功利主義における刑罰の根拠:犯罪抑止策として正当化

契約主義における刑罰の根拠
――「人間の相互安全保障」としての法
――「法に違反する傾向は、悪い性格の印」(p46-47)

❶、❷は分かりやすいけど❸が理解できるようなできないような。個人を”正統な社会”に従うよう促し、それに反する不穏分子は法で裁かれるべきである、というような積極的に罰していく感じ??

責任否定論

結果責任としての責任を否定しようとした左派は、論点がずれていて、かつ、そのずれている主張の根拠も弱かった、という話。

責任の時代への左派の応答は、その大半が思いのほか保守的であり、同時に驚くべき急進性を示している。一方でそれは、責任の時代に流布している基本的前提、つまり人は自分の招いた結果については責任を負うべきだと言う前提を受け入れている。他方ではそれは、通常本人が招いたとみなされる結果の大半について、それを否定する。(p134)

この責任否定論は共感されやすい直観に基づくものの、一般に認められているよりもはるかにあやふやな理論的根拠に依拠している。

➡主張を進めていくと、たちまち説得力を失っていく。

大半の人々は、特定の才能のような資質を純然たる運の問題だとはなかなか認められない。その理由は主に、人のアイデンティティというものが、たとえば自分にスポーツや手仕事の才能があるという事実と深く結びついているからである。ある人の努力への意欲という話になると、一部の人が他の人より勤勉なのは構成運が原因なのだという主張は、いっそう有権者の同意を得られないだろう。(p134-135)

自分はどちらかというと⇑のように考える傾向にあるし、その構成運が今のアイデンティティにも大きく関わっていることとも矛盾なく両立すると思うけど(宿命論者ではない)、自分は努力で勝ち上がってきたという自負のある人は受け入れがたいことが多そうだなと思った。

不運に関する原想定を論理的な結論まで煮詰めると、人は意欲の有無等の属性には責任を負えないという見方に、哲学者たちは慣らされているが、これをもとに政治的戦略を立てることは失敗をお膳立てしているようなもの。(p135)

自分の招いた結果であっても公的保障は受けられるようにするべきと主張したいと思っていたとしても、その考えを受け入れられない有権者が多数派であれば迎合せざるを得ないよな、とは思った。上のオバマ氏もそうだけど。

これと同じく重要なのは、責任消去論を真面目にとればきわめて過激な意味合いを帯びてしまうこと――そしてそれゆえ、主体性の否定を通じて責任の時代のもっとも有害な側面を克服することは全く望み薄であること――を示すことなのである。(p135)

また、責任否定論が政治的に無力であるもう一つの理由は、

人に自分の行動の責任を負わせる経験的妥当性の否定に専念するあまり、責任の時代の批評家は、そのような帰責が実際に規範的意義をもつはずだという想定に対し、思った以上に無批判になってしまうことがある。(p136)

その例として挙げられているのがレディ・ガガの「Born This Way」(p136)。
今日の政治で「同性愛=ライフスタイル」の選択と表現することは政治的に不適切とされる。それゆえ、同性愛は生物学上の特性であり、本人が選んだものではない、という論理で否定する。

しかし、

(同性愛は生まれつきのものだから祝福されるべきだ、自分の選択ではないと言う)見方は、規範的に混乱している。この考え方によって小児性愛やレイプが正当化されるはずはない。同意により異性間ないし同性間の性愛と、レイプや小児性愛との間にある重大な規範的相違は、前者への欲望が先天的であることではなく、それが同意に基づくものだと言う点にある。(p138)

 ある種の行動を、先天的だという事実によって正当化することはできないが、我々は自制することが無理な場合には非難を控えることがある。

 「このように生まれる」戦略の支持者は、同性愛者が自分に「落ち度」は無いのに現在苦境に陥っていると言うだけで彼らの不道徳が許され、平等な権利が認められるべきだとほのめかしているようだ。この権利の支持者は、責任否定と言う観点から同性愛者の権利をめぐる論争をとらえた結果、異性愛者である方が望ましいと言う暗黙の前提をうかつにも支持してしまっている。彼らはむしろ、パートナーの選択が本当に個人の道徳的責任の問題だったとしても、同性愛は罪悪だと言う基本的前提を攻撃した方が良かったのである。(p139)

政治理論家にとって適切な振る舞いとは、同性愛の起源の判定(=先天的かどうか、もっと言えば先天的だから責任を負わなくていいと主張することではなく、同性愛関係が持つ価値や同胞市民の選好を尊重することの大切さ(=人権)を擁護すること。

 問われるべきは、前政治的な次元において行為者はどんな選択について真に道徳的責任を負うのか、またその結果どんな正当な政治制度も、その人の権原をそれらの選択に確実に合致させねばならないのか、という問題ではない。むしろ、我々の制度が貢献すべく構築された本来の目標を促進するためには、どんな状況下で行為者にその行動の結果について責任を負わせねばならないのか、と問うべきなのである。(p141)

確かに、先天的だから(その人の過失ではないから)そこに関連する権利は保障されるべき!!という主張だと、その人の”過失”によって引き起こされた結果に対しては無批判に受け入れてしまうことになるよね。

パートナーの選択に関する責任だとすれば、例えばパートナーからDVを受けたとして、「自分でその相手を選んだんでしょ?」とか、職業選択だったら、例えば仕事中に性暴力を受けたセックスワーカーに「リスク分かっててその仕事選んだんでしょ?」っていう主張に対して、Born This Wayは無力。。論点そこじゃない感すごい。。(政治における理論的根拠の話であって、普段はLady GagaもBorn This Wayも好き)

 

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ちょっと長くなってきたので、一旦ここで終了。後編では以上の議論を踏まえ、筆者の主張をまとめる。