Note to Self

2021.1.16~ 日々の読書の記録。

【読書録】『これからの男の子たちへ―「男らしさ」から自由になるためのレッスン』

 『ボーイズ 男の子はなぜ「男らしく」育つのか』という本を読んだことがあって、似た本があるなと思ったので、読んでみた。『ボーイズ』の方も内容忘れてるので、あとで読み直してまとめたいとは思っている。

今回の本は、全体的に良い内容だったけど、普段自分が考えていることも多くて、新しく知るというよりは「そうだよね~」と確認していくような感じで読んだ。

 一言でいうと、

今の大人の男性たちにジェンダー平等について理解してもらうのはコスパ悪すぎるから諦め、ご退場を待つのみで、これから大人になっていく「男の子たち」に性差別構造を再生産をさせないよう、男の子の育て方を考える方に期待をかけよう

という感じの本だった。

 

🔑前提として:筆者のスタンス

筆者自身も「男らしさ」「女らしさ」の押し付けには反発があり、男の子/女の子だから、という理由で違う扱いをしてはいけないと思っている。巷の「男の子の育て方」的な本には身構えるタイプとのこと。

しかし、家庭内で「男らしさ」「女らしさ」の押し付けをなくしても、社会から与えらえるメッセージは、性別によって大きく違う。そしてそれは価値観や感受性の形成にも関わる。

➡これについては男女ともに同じだが、性差別構造において、「男の子」はマジョリティ属性、「女の子」はマイノリティ属性。

➡従って、子育てにおいて意識すべきことが違うのは当然(8)

自分自身も本当は、男女の区分けは大して重要じゃないと思っていて、「男性は~」「女性は~」とかは絶対に言いたくない。でもこの社会は個人のスタンスとは関係なく、性別二元論で成り立っていて、否が応でも刷り込まれてしまうというのはよくわかる。

フェミニストでも、「男は敵だ」というような二項対立で物事をとらえていく人の考え方にはあまり共感できないけれど、この本は諸悪の根源は性差別構造で、男性も女性もそれの解決に向けやるべきことがあるよね、という書き方なので読みやすかった。

 

💡書いてあったことと考えたこと

男らしさの弊害

特に著者の太田啓子さんと、小学校教師の星野俊樹さんの対談形式の章が面白かった。星野さんは性や生の多様性を尊重する授業に取り組んでいる方。星野さんによると、ジェンダーに関して、「男の子」には三つの段階がある。(134-135)

❶幼稚園・保育園から低学年
幼稚園や保育園でジェンダーバイアスが刷り込まれることはあるが、親や教師など身近な大人の影響を受けやすいため、軌道修正できる余地もある。

❷中学年
ギャング・ エイジ呼ばれる時期。親や教師よりも同年齢の仲間同士のルールや価値観を優先するようになり、ジェンダーバイアスががっちりと内面化されていく。とりわけ男子はここでホモソーシャルの原型ができて、男らしさの覇権争いが激化。弱々しい男の子に対するからかいや見下し、そして女の子に対する性的なからかいが生まれていく。

❸高学年
(なぜかここに関する説明がなかった)

星野 男性学者の田中俊之さんは、男らしさを証明するための方策には「達成」と「逸脱」があるとおっしゃっている。達成とは学業やスポーツで競争に勝つという正の方向ですが、逸脱というのは大人の期待と逆を行くふるまいですね。

...

そこで「男の子なんてそういうものだよ」「男子はおバカでほほえましいね」というのは、ある意味で男の子の子育てに試行錯誤している親たちをエンパワーする言説ではあると思いますが、「男らしさ」の競争を補強する方向にも働いてしまう。達成も逸脱も、方向は違えど競争原理に基づいていて、「俺はこんなにすごいぞ」という誇示でしかないわけです。

...

この時期から男の子は、お互いの弱みや不安、つらさといったものを表に出すことを「ダサイ」「かっこ悪い」とする価値観の中で生きることを強いられます。それが自分の中の負の感情を言語化しにくくさせ、共感力やコミニケーション能力の成長を妨げてしまう。本来得られたはずの自分の感情に向き合う機会を、周囲の接し方で奪ってしまうことになるんです。(136-137)

 

感情の社会化

感情の社会化プロセス(東京学芸大教授:大河原美以さん)

❶子ども自身の不快感情の表出
❷それに対する大人からの感情の承認と言語化
例)「痛かったね」「怖かったね」といった言葉で子どもは自分の感情を言語化でき、安心感を得る。

⇔周囲の大人が子どもの不快感情を否定し、抑圧してしまうことがある。
例)男の子が道で転んだ時、大泣きを予測した親が先に「痛くない!」と言ってしまう。

子どもが自分の負の感情を表出しても、他者が受け止めてくれると感じること。その積み重ねこそが子どもの感情の健全な発達につながるのです。それなのに、言語化する前に「痛くない」とか「泣かないお前は偉い」といきなり言われてしまうと、子どもは自分の負の感情は受け入れてもらえないことを体験的に学び、その感情を抑え込んでしまいます。(138)

➡それが「解離」につながる。
例)家では親の期待通りにふるまうのに、学校では負の感情を抑制できず、友達に暴力や暴言をぶつけてしまう。行き場のない感情を自傷行為で解消しようとする。

➡解離が積みかさなると、アフェクト・フォビア(情動恐怖)と呼ばれる状態に。
自分や他者の感情に触れることを恐れて回避するような心理状態。解離を続けた結果として、自分の感情認識できない。同時に他人の感情に共感する力も育っていない。(139)

 

社会的公正教育(Social Justice Education)

特権と抑圧を実感できるアクティビティ

①スクール形式で机が並んでいる教室で、黒板の前に大きな段ボール箱を置く
②生徒に1枚ずつ紙を配って、その紙に名前を書いて丸めたボールを、自分の席から投げて段ボール箱に入れてもらう
③前の席の生徒は簡単に入れることができるが、後ろの席の生徒は入れられない。
こんなゲームを無意味だと言って投げるのをやめる生徒も出てくる。
④座席から黒板までの距離が何を意味すると思うか、と生徒に問う。
➡前方に座っている生徒は、シスジェンダーヘテロセクシュアル(異性愛者)の男性や、経済的に恵まれた家庭環境などの特権を持った人。後に行くほどそうではない境遇の人。そう説明すると、多くの生徒が直感的に理解してくれるという。(147-148)

この教室が表しているのは現実の世界だと。このゲームのような不公平な構造を変えていくには、時計を持つ側で気づいた人が行動する必要がある。教室の前方に座っている人は、前だけ見ていれば自分が優遇されていることに気づかない。でも、後ろを振り返って、自分が特権的な立場にいることを自覚した人は、もしも行動せずに特権に留まろうとするなら、この構造の再生産に加担したことになる、と。(149)

この教育は本当に必要だと思う。エリートであればあるほど、自分の成功は自分が頑張ったおかげ、だと思う傾向があって、これは現代の教育の欠陥だと思う。他者への想像力を育てる工夫が必要だと思うし、子どもだけでなくて大人もこういうゲームやってほしいと思った。

「排除されたものの明晰さ」
今の教室のモデルで言えば、特権から排除された側には教室の後方から差別構造がありありと見えるので、世界を明晰に理解することができる。他方、特権を持つものはそれに気づかないふりをして生きることができるので、そのような明晰さを持ち得ない。自分の昔から後ろを振り返って構造自覚するには、やはり知識が必要だし、子供たちがそれを教育の中で学ぶ必要があります。(149)
ブルデュー、この間NHKの100分de名著に取り上げられてて、今度読んでみたいなと思っていた。ただ、ある部分では「排除された者」の中でも、自分は差別に困ってないという発言をしている人はいて(そういう発言は特権を持つ者たちに良いように引用されていく。)、この「排除」は複雑に、何重にも積み重なっているんだろうな、と思う。
 
有害な男らしさについての議論を通じて、男らしさの価値観が男性自身を生きづらくしていると言う認識は少しずつ浸透してきたと思います。ただ、「男だってしんどいんだ」と言う部分だけを強調すると、性差別構造の中で特権を持つ側であることを免罪する方向に悪用されてしまう恐れもある。男性の生きづらさを入り口に、「こんな差別的な社会は男だってうんざりだ」と言う声になっていくためには、特権について考えさせる社会的公正教育とセットである必要があるんです。(152)

ここにちゃんと言及してくれているのがよかった。男性の生きづらさを主張することがその特権性をうやむやにさせることがあってはならない、性差別を正当化することにもならない。ここは重要。

あとは思春期になると性的欲求が出てくるのは普通のこと、というような説明のすぐ後に(アセクシュアルと呼ばれ、性的欲求を持たない人もいる)という内容の但し書きがあったり、「○○は~だ」と断定するのではなく、「○○は~な人が多い」「多くの○○は~」というような形で書いたりしてくれていたのが、セクシュアルマイノリティである自分らの存在を否定されていない感じがして嬉しかった。気づかない人の方が多そうだけれど、常に透明人間の我らなので。

 

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仕事が忙しくなってきたので平日ほとんど本読めなくなって少し悲しい。でも仕事は今のところ楽しいからいいか。マイペースに行きます。

 

 

【読書録】『誰かの理想を生きられはしない とり残された者のためのトランスジェンダー史』

今回取り上げるのは、「自分のために書かれたのではないか」と思うくらい共感し、泣きながら読んだこの本。 読んだのは少し前だから記憶古くなっているけど、備忘録として考えたことをまとめる。

誰かの理想を生きられはしない

誰かの理想を生きられはしない

 

まず、タイトルが好き。自分自身、ポジティブかネガティブかを問われたらおそらく後者だし、基本的にどこか悲しさを感じさせる話が好き。でもその「生きられはしない」という諦めの中にも強さやプライドを感じさせる感じ。そして「とり残された者」へのやさしいまなざし。

そんなamazarashiをも彷彿とさせる本をTwitterで見かけたので、「これは読むしかない!」と一瞬でお買い上げした(普段は図書館で借りることの方が多いけど、好きなものには課金する。”選択と集中”は大事)。

 

LGBTの中でも置いていかれがちなトランスジェンダー、そしてトランスジェンダーの中でもさらに不可視化されがちなノンバイナリーの我ら。報道やドラマといったメディアを通して描かれ続けた「トランスジェンダー性同一性障害」の図式が強すぎて、透明人間にされてきた我ら。まさにそんな、でもしっかりとこの社会に存在し、生きている人間たちのために書かれた話だった。

だが、たとえ「性同一性障害」がトランスジェンダー(あるいは、ひとくくりに混同されて「LGBT」)という言葉に置き換わって認知されても、日本で機能している制度は結局「性同一性障害」、GID基準で出来ているのだ。いずれ何らかの手術を受けるとき、戸籍の性別を変更したいと思うとき、必ず「性同一性障害」と直面する日がやってくるだろう。...この本は、あとから生まれてくる者たちのためにも書かれている。(p32-33)

 

印象的だった文章を書きだすときりがないので、いくつかを抜粋。

GIDは個人の「疾病」ではなく、社会の「疾病」である。特例法はあたかも、個人の疾病を解消することに手を貸すような姿をしているが、そもそもの生きづらさや不自由さを生む原因ごと、当事者の領域に還元してしまおうとしている。究極的に変えねばならないのは、当事者の身体ではなく、社会の方であろう。

そのためには、厳しい選択ではあるが、当事者が「いずれ同化・埋没するための」トランス(性別移行)ではなく、ずっと「移行中」であることを期す必要がある。現行特例法が含む男/女の切り分けや、「一般的な」身体への同化、二元論への埋没を敢えて拒否し、境界線上にいることを示し続けることが重要だろう。

通行人や友人が「男か女か判らない人」だったり、「どちらでもない人」だったりすることが「あり得る」ということを、社会の経験として蓄積させる必要がある。そのためには、当事者が当事者たり続ける必要があるのだ。(p58)

その通りなんだけど、めちゃくちゃ酷だな、という絶望も感じた。埋没せず、「移行中」であり続けることは、社会の「不穏分子」であり続けることでもある。社会全体への「教育」のために、周囲から不審な目を向けられる役を買って出る当事者に、みんながなれるわけでもない。クィアであると開き直って、社会の規範をゆがめていくスタンスをどれだけの人がとれるだろうか。むしろ、不審に思われない範囲で何とか自分のセクシュアリティと性別二元論の規範の折り合いをつけていく人が大半だろう。同時に移行し終えて、埋没し、結果的には社会の性別二元論の規範を容認し、再構築させる形になってしまっているトランスジェンダーを責めることも的外れであると思う。

社会的に脆弱な立場に置かれているマイノリティがその役を引き受けなければいけない現実がつらすぎる。もちろん、ひと昔前に比べたら状況は確実に良くなっていて、自分が今享受しているものはそういった先人たちのおかげであることは間違いないのだけれど。

最近はドラマや映画でもLGBTが取り上げられることが増えてきたことだし、そういう中でノンバイナリーの役とかが自然に出てきてくれればいいなと思う。Sex Educationのシーズン3にノンバイナリーのキャラクターが登場するらしいからそれはめちゃくちゃ楽しみ。日本でも気軽にそういうコンテンツがみられるようになってほしい、と思う反面、何度も裏切られてきているので、ちゃんと脚本家とか確認しないと怖すぎて見れない。。

 

特例法が制定されるまでの過程で、恩恵を受けられる者とそうでない者に分けられていく様子もわかりやすくまとまってた。

制約の中でそれを表現するときは、社会規範においてマジョリティに近いスタイルが優先される。子どもを持つ当事者、手術を必要としない当事者は周縁化された。

結局はマジョリティの理解を得やすい形で、マジョリティを脅かさない範囲で「認めてもらう」立場になってしまうんだよな。それによって、「認められない」範囲にいる人たち、つまり「本当のGID」ではない人たちの立場はより弱くなっていく、と。

 

こういった「品評」は決して許されるものではなく、どのような人物が「女性」であるか、その基準がどこにあるかといった「議論」も成立させるべきではない。万が一にも「議論」を試みる場合は、ひとりひとりの当事者の背後には、己の在り方を掴むために足掻き続けてきた歴史があることに最大限の敬意を払わねばならない。(p112-113)

ここ読んだとき号泣した。terfと呼ばれる人たちを始め、Twitter上でトランス排除発言を見るのはとてもきつい。フェミニズムはそういうヘイトとは相容れないと信じている分、トランスフォビックな発言をしている人たちがフェミニストを名乗っていると、余計に絶望していた。だからこそ、この言葉がうれしかった。

 

あと「おわりに」の言葉はまさに自分が思ってることを代弁してくれていた。

特権を持つ者は、それを持たない者の立場を想像し、マイノリティを排除しない方法をかんがえる責任がある。トランスジェンダーゆえのコストをどれだけ払っているとしても、決して免除されることのない責任だ。自責の念を駆り立てようとして言っているのではない。ものを考えるときの習慣として、他者と接する際の前提として、意識してはどうかという提案である。(p202)

「多様性を理解しましょう」 というのは、「みんなちがってみんないい」という寛容性だけでは成り立たない。社会の構造として、どのような格差があるのか、それを是正するためにはどんなアクションが必要なのかを理解する必要がある。違いを見るだけではなく、特権を持っているのは誰か、抑圧されているのは誰かを考えなければ、いつまでたっても多様な社会は実現されない。

 

 

 

 

【読書録】『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』

ジェンダーをテーマに取り上げている小説として、気になっていたので読んだ。

過去に自分が身に着けていた有害な男らしさへの嫌悪感とか、知らぬ間に自分が他人を傷つけているのではないかという恐れとか、自分は良くても他の人が苦しんでいる状況がつらいという繊細さとか。そういう「やさしすぎる」からこそ痛みから逃れられない人たちの生きづらさがとっても丁寧に描写されている本だった。

ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい

ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい

 

 

以下、ネタバレを含みます。

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【読書録】ヤシャ・モンク『自己責任の時代』後編

  前編で「責任」という言葉がどのように捉えられ、それがどのように変化してきたのかを整理したので、後編では、それを受けた筆者の主張をまとめる。

smallbut.hatenablog.com

筆者の主張:責任を否定するのではなく、肯定的な責任観を発展させよう!!

まず、責任の意味を考え直し、概念を拡張させる。=肯定的な責任感へ発展させる
「どんな状況なら人に行為の責任を負わせられるか」という発想から、
「他者の福利に責任を負いたい」という誰かの願望へ転換させる
      ⇑ 
そのために、個人が責任を負い、責務を遂行し、他者に当人の行為の責任を負わせることも大事だと考える理由を説明する必要がある。(p148-149)

 

肯定的な責任観とは――個人が遂行し、社会が促進すべきものとしての責任

自己への責任

人にとって大事なのは、自身の生計という物質上の前提条件についてつとめを果たすかどうかという狭い事実ではなく、――それと深くかかわるが別個の問題としての――自分自身の生活に対しての真の主体性の感覚を持つことなのである。(p150)

主体性の感覚を求める願望がとり得る3つの形(p150-151)

①我々は一定の範囲で自分の生を実際に制御することを望んでいる

②我々は自己への責任を果たしていると感じることを必要としている

③我々は自己への責任を果たしていると周囲からみなされることを必要としている

+@ 自己の将来に対する責任:自分の運命を制御できるだろうという感覚の大事さ

他者への責任

様々な外向的関心は、個人の求める様々な責任の中でも決定的な位置を占める。(p159)
➡ここに懲罰的前提を作り替えるヒントがある!

我々の社会は一般市民に対して他者への責任を引き受けるための十分な余地を与えていないのかもしれない、という考えは、つねづね政治学からも哲学からも聞かされることである。(...)

これは、リベラルな哲学全般を拒んで個別的な忠誠を普遍的権利よりも優先させようという動きから生じている。(…)要するに、本質的目的の否定がまず犠牲にするのは、まさに自発的選択に先立って存在し、ただ意志するだけでは放棄できない一種の他者への責任である。(p160)

自分の信念を理由に同性愛者の権利を否定する、自分の属する民族や部族の処遇改善を要求するが、自分ら以外の人々には政治共同体の一員であることを認めない、など。

引用の意味はいまいち理解できなかったけど、上の具体例はわかりやすい。

市民が自分の最も深いコミットメントを尊重するだけの余地を十分提供できるリベラルな社会の展望を築くには、他者への責任が多くの人にとってどれだけ大切かを理解しなければならない。(p161)

サンデルが他者への責任の大切さを力説するとき、彼はしばしば共同体の観点に立っている。(…)しかし時折彼はまた、異なる種類の他者思考的責任についても語っている。それは個別の「企てproject」に向けられた責任である。これもまた、我々が他者に負う責任としては同じくらい大切なのではないだろうか。(162)

という主張と合わせると、自分の信念を主張するのと同様、他者の信念や存在を尊重することも「他者への責任」とみなされるべきだ、という理解でいいのだろうか。

 

他者を責任ある存在と考えること

自分自身や他者への責任を負うことだけでなく、他者をその人の行動への責任を負いうる存在とみなすことも大切。(p163-164)

理由❶:
他者と有意義な関係を築くには、相手の事を自分の行動に責任を負える存在だと考える必要があるから。

”社会的弱者”について考える時に、例えば貧困なら、貧困に陥った責任がその人にあったのではなく、その周りの環境(家庭環境、経済階層、社会構造)に要因がある、という考え方をしがちだけど(もちろんその視点自体は非常に大事)、それが行き過ぎるとその人を無力な存在としてとらえすぎてしまう、その人のもつ力を奪ってしまっていることになる、という話とも関係していると思う。この部分は、前編で扱った「主体性の否定」は責任の時代の有害な側面を克服することはできない(p135)、という主張の裏返し、だと思う。

理由❷:
責任主体性の相互承認は、あらゆる平等主義的社会の成立条件だから。

 真に平等主義的な社会のねらいは、単に人びとに同程度の物質的資産を所有させることだけではなく、完全な市民としての対等な地位を互いに認めさせることでもある。この地位が致命的に損なわれるのは、一部の市民には完全な責任主体性が認められ、他方には認められない、という事態が生じた場合のことである。(p164)

 

肯定的な責任観について述べている章にあった次の文章が印象的だった。

私たちは責任を否定的に見る見方になじんできた。他の市民を脅かすための何か、自分が満たしていないのではないかと恐れる何かとして。(...)責任がこのように懲罰的かつ貧弱に扱われると、どれだけ多くのことが見逃されてしまうのかを思い起こさせる手がかりになった(と思う)。たしかに我々の責任の一部は同胞市民に不当な負担を負わせないことにあるのかもしれない。しかしそれ以外にも、我々が責任概念を必要とする理由――そして責任に関する語りの豊かな歴史の再興がより豊かな我々の市民生活に結び付くべき理由――は山のようにある。肯定的な責任観念なしには、人が自分自身の生活の主体であることが当人にとってどれだけ大切なのかは言い表せないし、人がそのような主体性の持ち主として見られるべきであることも言い表せない。それなしには我々は、人々のアイデンティティの一部がかれらの他者に対する責務、自分の家族への責務やみずから引き受けた企てへの責務によってできていることをとらえられない。そして最後に、それをもたない人は、友人関係から市民間の連帯に至るまで、の重要な人間関係を保てない――そして貧しい人に手を差し伸べた場合でさえも、かれらを蔑んだことを非難されねばならないのである。(p171-172)

 

現代の自己責任論の特徴

我々の自己責任の語り方に顕著な特徴の一つは、個人の行動には関心を向けても、一連の結果の総体を生み出した広範な構造的変化には無関心、というものである。(...)要するに、人はある個人が責任を果たしたかと問うことはあっても、正しい政策がかれららを力付けてましな行動をとるようにできなかったのかと尋ねる事は無いのである。(p175)

➡望ましい社会は、なるべく多くの人に正しい選択能力を与え、なるべく多くの人に充実した物質的に快適な生活を送れるだけの社会的地位を広く提供すべく心を砕くはず。

しかし、「無責任」に行動した人への「処罰」を重視するあまり、われわれは自ら自分の健康を危険にさらし、自分の物質的利益を抑制することで、彼らに自身の行動への結果責任を負わせている。また、制度自体が責任随伴的であるために、人々に精神的不安を負わせている。(p188-189)
広範的な構造的変化に注意を払ってこなかったことで、平時には前衛化していなかった(でも問題はずっと前からあった)ものが各所で表面化してきているなと思う。
肯定的な責任像を公共政策に落とし込む

懲罰的で前制度的な責任像から、肯定的で制度的な責任像に変えると3つの変化が起こるという。(p202)

❶責任を負うことの意義を強調することが、市民の主体性を強化するプラグマティックな方法でありえる

❷人が望む責任を果たせるようになるための物質的、教育上の前提条件を整える

福祉国家の官僚たちを懲罰的裁定者から協働的企てに関与する建設的パートナーに変貌させる

 

最後少し力尽きてしまった感。ヘビーだったけど少しは理解できたかな。読みなおしたらまた感想も含めて書くかも。

 

【読書録】ヤシャ・モンク『自己責任の時代』前編

自己責任論が幅を利かせている今の日本社会の雰囲気にどうしても共感できないので、何かの突破口を見つけられないかと思って読んだ。友人におすすめされた本。

 ただ、読んだはいいものの、政治哲学の背景知識が無いに等しいので理解が追い付いてない。とりあえず思考整理のために分かった範囲だけでもまとめてみる。

 

🔑キーワード

 まず「自己責任」という言葉を考える前に、政治において「責任」という言葉がどう変化してきたかをこの本に沿って整理してみる。

戦後直後には、一個の広範な社会的合意があった。それによると、国家は市民に一定の義務を負っており、その多くは当の市民が下した責任とほぼ無関係である。路頭に迷う人がいれば、国家はかれらを助けなければならない(...)しかし他方で、「無責任に」ふるまった人々にまでこの種の義務を広げることについて、否定的な立場をとる有権者や政治家の数は増えつつある。年長者世代は、責任とは人助けの義務のことだと考えてきた。一方、今日広く浸透している責任像は、極めて懲罰的punitiveなのである。(p5)

各個人の責任へと意味合いが変化していったのは80年代初頭の保守革命のころから。

自己責任の新解釈は、たとえば、ロナルド・レーガンの最も有名な演説の一説に潜む主題だった。「私たちは、法が破られたとき、罪を問われるべきは法を破った者ではなく社会なのだ、という考え方を捨てなければなりません。いまこそ、誰もが彼の行動の結果に責任を負う、という米国流の原則を蘇らせるときなのです」。(p2)

中道右派だけでなく、中道左派の指導者でさえ、もはや万人対象のセーフティネットについては語らなくなっている。(自己責任を受け入れている多数の有権者に受け入れられないという理由も大きい)

バラク・オバマ大統領合衆国大統領もそうだが、その代わりにかれらは、責任ある行動をとってきた人びとを不運から守らねばならない、と言う。(...) 正当に扱われるべきは「真面目に働き規則に従う」米国人だと力説してきたのである。(p3)

 他者に対して負う「義務としての責任」から、
    ⇓
自分の”選択”により引き起こされた事態に対して負う「結果責任」としての責任へ、意味が転換していったことがわかる。

 

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【読書録】『女性のいない民主主義』

政治および政治学においていかに女性という存在が蔑ろにされてきたかについて書かれている『女性のいない民主主義』という本について。

女性のいない民主主義 (岩波新書)

女性のいない民主主義 (岩波新書)

 

 

🔑キーワード

この本で出てきたワードで他の分野でも応用できそうだな思ったワードは「クリティカル・マス(臨界質量/critical mass)」

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【読書録】我々はどれだけステレオタイプの影響を受けているか―『ステレオタイプの科学』

早速備忘録として読書記録書いてみる。

最近読んで面白かったのは、「我々がいかにステレオタイプに左右されているか」社会心理学的な視点から書いたこの本。

あるアイデンティティを持っているがゆえに直面する弊害と、それをどうやって乗り越えていくべきかについて書かれている。 著者の幼少期の経験やどのように研究を進めていったか、具体的な研究内容を踏まえて時系列順に書かれているので、文章も平易で非常に読みやすい。背景知識なくても読める。

🔑キーワード

この本に出てくる重要な概念は大きく2つ。アイデンティティ付随条件」ステレオタイプ脅威」

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