『ボーイズ 男の子はなぜ「男らしく」育つのか』という本を読んだことがあって、似た本があるなと思ったので、読んでみた。『ボーイズ』の方も内容忘れてるので、あとで読み直してまとめたいとは思っている。
今回の本は、全体的に良い内容だったけど、普段自分が考えていることも多くて、新しく知るというよりは「そうだよね~」と確認していくような感じで読んだ。
一言でいうと、
今の大人の男性たちにジェンダー平等について理解してもらうのはコスパ悪すぎるから諦め、ご退場を待つのみで、これから大人になっていく「男の子たち」に性差別構造を再生産をさせないよう、男の子の育て方を考える方に期待をかけよう
という感じの本だった。
🔑前提として:筆者のスタンス
筆者自身も「男らしさ」「女らしさ」の押し付けには反発があり、男の子/女の子だから、という理由で違う扱いをしてはいけないと思っている。巷の「男の子の育て方」的な本には身構えるタイプとのこと。
しかし、家庭内で「男らしさ」「女らしさ」の押し付けをなくしても、社会から与えらえるメッセージは、性別によって大きく違う。そしてそれは価値観や感受性の形成にも関わる。
➡これについては男女ともに同じだが、性差別構造において、「男の子」はマジョリティ属性、「女の子」はマイノリティ属性。
➡従って、子育てにおいて意識すべきことが違うのは当然(8)
自分自身も本当は、男女の区分けは大して重要じゃないと思っていて、「男性は~」「女性は~」とかは絶対に言いたくない。でもこの社会は個人のスタンスとは関係なく、性別二元論で成り立っていて、否が応でも刷り込まれてしまうというのはよくわかる。
フェミニストでも、「男は敵だ」というような二項対立で物事をとらえていく人の考え方にはあまり共感できないけれど、この本は諸悪の根源は性差別構造で、男性も女性もそれの解決に向けやるべきことがあるよね、という書き方なので読みやすかった。
💡書いてあったことと考えたこと
男らしさの弊害
特に著者の太田啓子さんと、小学校教師の星野俊樹さんの対談形式の章が面白かった。星野さんは性や生の多様性を尊重する授業に取り組んでいる方。星野さんによると、ジェンダーに関して、「男の子」には三つの段階がある。(134-135)
❶幼稚園・保育園から低学年
幼稚園や保育園でジェンダーバイアスが刷り込まれることはあるが、親や教師など身近な大人の影響を受けやすいため、軌道修正できる余地もある。
❷中学年
ギャング・ エイジ呼ばれる時期。親や教師よりも同年齢の仲間同士のルールや価値観を優先するようになり、ジェンダーバイアスががっちりと内面化されていく。とりわけ男子はここでホモソーシャルの原型ができて、男らしさの覇権争いが激化。弱々しい男の子に対するからかいや見下し、そして女の子に対する性的なからかいが生まれていく。
❸高学年
(なぜかここに関する説明がなかった)
星野 男性学者の田中俊之さんは、男らしさを証明するための方策には「達成」と「逸脱」があるとおっしゃっている。達成とは学業やスポーツで競争に勝つという正の方向ですが、逸脱というのは大人の期待と逆を行くふるまいですね。
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そこで「男の子なんてそういうものだよ」「男子はおバカでほほえましいね」というのは、ある意味で男の子の子育てに試行錯誤している親たちをエンパワーする言説ではあると思いますが、「男らしさ」の競争を補強する方向にも働いてしまう。達成も逸脱も、方向は違えど競争原理に基づいていて、「俺はこんなにすごいぞ」という誇示でしかないわけです。
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この時期から男の子は、お互いの弱みや不安、つらさといったものを表に出すことを「ダサイ」「かっこ悪い」とする価値観の中で生きることを強いられます。それが自分の中の負の感情を言語化しにくくさせ、共感力やコミニケーション能力の成長を妨げてしまう。本来得られたはずの自分の感情に向き合う機会を、周囲の接し方で奪ってしまうことになるんです。(136-137)
感情の社会化
感情の社会化プロセス(東京学芸大教授:大河原美以さん)
❶子ども自身の不快感情の表出
❷それに対する大人からの感情の承認と言語化
例)「痛かったね」「怖かったね」といった言葉で子どもは自分の感情を言語化でき、安心感を得る。
⇔周囲の大人が子どもの不快感情を否定し、抑圧してしまうことがある。
例)男の子が道で転んだ時、大泣きを予測した親が先に「痛くない!」と言ってしまう。
子どもが自分の負の感情を表出しても、他者が受け止めてくれると感じること。その積み重ねこそが子どもの感情の健全な発達につながるのです。それなのに、言語化する前に「痛くない」とか「泣かないお前は偉い」といきなり言われてしまうと、子どもは自分の負の感情は受け入れてもらえないことを体験的に学び、その感情を抑え込んでしまいます。(138)
➡それが「解離」につながる。
例)家では親の期待通りにふるまうのに、学校では負の感情を抑制できず、友達に暴力や暴言をぶつけてしまう。行き場のない感情を自傷行為で解消しようとする。
➡解離が積みかさなると、アフェクト・フォビア(情動恐怖)と呼ばれる状態に。
自分や他者の感情に触れることを恐れて回避するような心理状態。解離を続けた結果として、自分の感情認識できない。同時に他人の感情に共感する力も育っていない。(139)
社会的公正教育(Social Justice Education)
特権と抑圧を実感できるアクティビティ
①スクール形式で机が並んでいる教室で、黒板の前に大きな段ボール箱を置く
②生徒に1枚ずつ紙を配って、その紙に名前を書いて丸めたボールを、自分の席から投げて段ボール箱に入れてもらう
③前の席の生徒は簡単に入れることができるが、後ろの席の生徒は入れられない。
こんなゲームを無意味だと言って投げるのをやめる生徒も出てくる。
④座席から黒板までの距離が何を意味すると思うか、と生徒に問う。
➡前方に座っている生徒は、シスジェンダーでヘテロセクシュアル(異性愛者)の男性や、経済的に恵まれた家庭環境などの特権を持った人。後に行くほどそうではない境遇の人。そう説明すると、多くの生徒が直感的に理解してくれるという。(147-148)
この教室が表しているのは現実の世界だと。このゲームのような不公平な構造を変えていくには、時計を持つ側で気づいた人が行動する必要がある。教室の前方に座っている人は、前だけ見ていれば自分が優遇されていることに気づかない。でも、後ろを振り返って、自分が特権的な立場にいることを自覚した人は、もしも行動せずに特権に留まろうとするなら、この構造の再生産に加担したことになる、と。(149)
この教育は本当に必要だと思う。エリートであればあるほど、自分の成功は自分が頑張ったおかげ、だと思う傾向があって、これは現代の教育の欠陥だと思う。他者への想像力を育てる工夫が必要だと思うし、子どもだけでなくて大人もこういうゲームやってほしいと思った。
「排除されたものの明晰さ」
今の教室のモデルで言えば、特権から排除された側には教室の後方から差別構造がありありと見えるので、世界を明晰に理解することができる。他方、特権を持つものはそれに気づかないふりをして生きることができるので、そのような明晰さを持ち得ない。自分の昔から後ろを振り返って構造自覚するには、やはり知識が必要だし、子供たちがそれを教育の中で学ぶ必要があります。(149)
有害な男らしさについての議論を通じて、男らしさの価値観が男性自身を生きづらくしていると言う認識は少しずつ浸透してきたと思います。ただ、「男だってしんどいんだ」と言う部分だけを強調すると、性差別構造の中で特権を持つ側であることを免罪する方向に悪用されてしまう恐れもある。男性の生きづらさを入り口に、「こんな差別的な社会は男だってうんざりだ」と言う声になっていくためには、特権について考えさせる社会的公正教育とセットである必要があるんです。(152)
ここにちゃんと言及してくれているのがよかった。男性の生きづらさを主張することがその特権性をうやむやにさせることがあってはならない、性差別を正当化することにもならない。ここは重要。
あとは思春期になると性的欲求が出てくるのは普通のこと、というような説明のすぐ後に(アセクシュアルと呼ばれ、性的欲求を持たない人もいる)という内容の但し書きがあったり、「○○は~だ」と断定するのではなく、「○○は~な人が多い」「多くの○○は~」というような形で書いたりしてくれていたのが、セクシュアルマイノリティである自分らの存在を否定されていない感じがして嬉しかった。気づかない人の方が多そうだけれど、常に透明人間の我らなので。
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仕事が忙しくなってきたので平日ほとんど本読めなくなって少し悲しい。でも仕事は今のところ楽しいからいいか。マイペースに行きます。